ナースの休憩室(雑談掲示板)

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嫌いな「言葉」や「ことわざ」ってありますか?

<2016年09月19日 受信>
件名:嫌いな「言葉」や「ことわざ」ってありますか?
投稿者:匿名

私の嫌いなことわざは、「嘘も方便」と「罪を憎んで人を憎まず」です。これは飽くまで、私の個人的な意見ですが、いかにも、悪人や犯罪者を正当化した言葉のようにも聞こえます。まして、犯罪者本人の口から出た言葉であれば、益々そのイメージが強まります。
一方、嫌いな言葉は、「俺たち友達だよな」・「お前の為を思って」・「言われているうちが花」こんな言葉を言う人は友達でも何でもありません。このように、皆様の嫌いな言葉やことわざを、理由も一緒に投稿お願いします。

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No.1
<2016年09月19日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

「ステった」はイヤです。亡くなった、と言って欲しい。


No.2
<2016年09月19日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

「嘘も方便」は自分としてはありかな。お世辞や建前はうまく使った方が人間関係上手くいきますし。
嫌いなことわざですが、「腐っても鯛」ですかね。いたんだものは使えませんからね。物だろうがなんだろうが。
嫌いな言葉は「努力は必ず報われる」「辛いのはあなただけじゃない」「世の中にはもっと苦しんでる人がいる」です。
同じだけ努力しても報われる人もいればそうでない人もいます。
もう2つは言われると本気で腹が立ちます。辛いのが自分だけじゃなかったら辛いって思ったらいかんのか!?世界のどこかに自分より苦しんでいる人がいたら自分は苦しいって思ったらいかんのか、だったら世界中の人々を調査して地球上で一番つらい思いをしている人にだけ苦しむ権利を与えろっつーの。その他の人は苦しいなんて言ってはいけませんという法律ができてからそういう発言をしろ!と言いたくなりますね。
「言われるうちが花」というのは私も嫌いです。 本当にどうでもいい人や見込みがない人には怒らない、とか言う人がいますが、絶対うそでしょ。イラついたり気に入らなければどうでもよくても怒るし、機嫌が悪けりゃストレス発散でもするかのように重箱の隅をつついてネチネチネチネチ…。言われる方からしたら、「耐えてやってるうちが花」ですよと言ってやりたい。


No.3
<2016年09月19日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

時代の流れなのか日本語が乱れてませんか?
特に嫌なのは若い人たちの略語です どうしてきちんとした言葉がつかえないのかがわからないんです
例えば、あけましておめでとう=あけおめ
年に一度の挨拶くらいちゃんとできないの? 聞いてて不愉快です


No.4
<2016年09月19日 受信>
件名:好きな言葉
投稿者:匿名

主さんのいう嫌いな言葉って、
嫌いな人から言われてムカつく言葉ですよね。

好きな言葉は
濡れ手に粟
棚からぼたもち、果報は寝て待て、
情けは人のためならず(自分のため)

ということで、この逆の言葉があれば嫌いな言葉かな。
石の上にも三年


No.5
<2016年09月20日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

『コミュニケーション能力』
私の周囲では、とことん嫌われている医師や看護師から『コミュニケーション能力』という言葉や説教が発せられる事が多く、一体どうなっているのか?と思います。
近頃は、この言葉を聞くだけでドキドキしてしまいます。


No.6
<2016年09月20日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

話の中で同じ言葉をよく使う人かな~。
例えば何かにつけ「よろしくない」って言葉を使う人。「これってよろしくないよね。」「こういうのってよろしくないと思わない?!」マイブームのように何かにつけて同じような言葉を使います。話してて嫌になっちゃいます。
もう一人いました。「もちろん」って言葉を繰り返し使う。これってこれでいいですか?とか聞いたらもちろん!!って返ってきます。
これも話してて嫌になります。口癖というか・・・・・・・
こういう人気になります・・・・・・・


No.7
<2016年09月20日 受信>
件名:回答ありがとうございます。
投稿者:スレ主です

No.1さん
「ステった」?すみません、私は知りませんでした。「死んだ」・「亡くなった」という意味ですか?
No.2さん
「嘘も方便」場合にもよりますが、この言葉って、「罪を憎んで人を憎まず」と同様に、自分に都合のいいように悪用している人が多くないですか?(私の周りだけでしょうか?)それから、「あなたより辛い人がいる」私も大嫌いな言葉です。まるで、「あなたはまだ恵まれている」と言っているのと同じようにも聞こえ、苦しんでいる(傷ついている人)に「恵まれている」なんて有り得ない台詞ですよね。「言われているうちが花」この言葉を前提にすれば、何を言っても許される訳ではありませんよね。それに対して、「耐えてやっているうちが花」上手い!ナイスな言葉です。
No.3さん
今の若者の言葉。略語もそうですけど、何だか最近は訳の分からない言葉も増えましたよね。本当に同感です。聞いてて不快に感じますよね。
No.4さん
まさにそのとおりです。嫌いな人から言われると本当に腹が立ちます。本当の友達だったら、まずこのような言葉は口にしませんよね。逆に私の好きな言葉。同じく「情けは人の為ならず」いい言葉ですよね。他には、「親しき仲にも礼儀あり」ですね。
No.5さん
「コミュニケーション能力」私も同じく好きにはなれませんね。この言葉を聞くと、悪いイメージしか思いつきません。その後に続く言葉として思い当たるものは大体
、「“コミュニケーション能力”に欠ける」とか、「“コミュニケーション能力”がない」といった言葉ですよね。
※皆様、長文失礼致しました。付き合って下さってありがとうございました。


No.8
<2016年09月20日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

5さんに続いて
[信頼関係]
築けているかどうか‼
というと、難しく自信がない。
人間関係が、うまく築けていないから自信がない。
自信に満たされた方からすると、なぜと言われると辛いだけの言葉です‼


No.9
<2016年09月20日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

俺たち友達だよな あー大嫌いっ!ぞっとするわー

お前の為を思って 嘘つけ!! そんなセリフ吐く人なんか信用できないよー


No.10
<2016年09月20日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

私の嫌な言葉は、質問者した人に対し「さっき言ったように○○です。」「そこに書いてますよ、○○です。」など…。とくに高齢の方が申し訳なさそうに聞いているのに、そのような返事をしてる場面をみると責めてるようで嫌な気持ちになります。どうせ説明するなら、最初の言葉はいらないでしょ、って思います。
好きな言葉は「さすが」。言われたらお世辞でも気分いいです。


No.11
<2016年09月20日 受信>
件名:嫌いな言葉
投稿者:あみのママ

汝の隣人を愛せ、とか右の頬をなんとかしたら左の頬なんか出せませんよ!痛いし嫌いな人がいたら愛せますか?そんな私心広い人間ではないと叫びたい!やっぱり理不尽な言葉意外にありますよね、苦労は買ってでもしたくない、私は売りたい位です。好きな言葉は一期一会です(*^^*)


No.12
<2016年09月21日 受信>
件名:無題
投稿者:新約聖書ですね^^

聖書はけっこう無茶苦茶なこと書いてあって、読んでる分にはおもしろいですけどね(笑)
右の頬ぶたれて左の頬まで差し出すなんてドMだな!って突っ込みたくなりますね。
ほっぺ殴られたら昇龍拳繰り出して対抗するのが常識ですよね!!


No.13
<2016年09月21日 受信>
件名:ステった‼
投稿者:匿名

ステルベン、ドイツ語です。


No.14
<2016年09月22日 受信>
件名:回答ありがとうございます。
投稿者:スレ主です

「信頼関係」。これも「コミュニケーション能力」と同様、あまり響きが良いと思えませんよね。「私たちの信頼関係」なんて、わざわざ口に出して言われると、何だか信頼されていないような感じがします。他にも、これも私独自の意見ですが、自分の口からの「反省してる」という言葉。大概、自分の口から「反省してる」って言葉を発する人は反省していないことが多い、つまり、「反省してる」という言葉は、反省していない人の言う言葉だと私は感じ、許す気持ちにはなれません。あとは、自分のことをへりくだり過ぎた言葉も嫌いですね。自慢話と同様に、聞いてて不愉快になります。むしろ、逆にへりくだり過ぎるのも、場合によっては自慢しているのと同じようにも聞こえますよね。何か他にも、面白いエピソードがありましたら、また投稿よろしくお願いいたします。


No.15
<2016年10月12日 受信>
件名:無題
投稿者:匿名

「コミュニケーション」「コミュニケーション能力(コミュ力)」おとなしい人、控え目な人、内向的な人を否定してるような気がしてしまいます…
「信頼関係」タメ口をきく看護師や介護士が、「私たちは信頼関係できてるから~」とかってタメ口を正当化していて、ハァ?と思いました。
「傾聴」確かに必要な姿勢であると思うんですが、看護記録に「~と訴えあり。傾聴す」とか書かれてると、何かモヤッとした気分になります。傾聴って、真面目に取り組もうとすると色々難しく奥深いと思うので。


No.16
<2016年10月13日 受信>
件名:15さん
投稿者:匿名

共感します!
看護師の世界はコミュニケーション、コミュニケーションと何かと煩いんだよ、とずっと思ってましたf(^_^;)
ひっきりなしに弾丸の様に喋ったり、大きな声でテンション高く話す人がいるのですが、付いて行けません。話が伝わらないと「コミュニケーションエラーだ」と言ったり。

独りよがりの解釈をされがちな言葉ですね。


No.17
<2016年11月28日 受信>
件名:コピーライター所生の「ねじり語法」
投稿者:半畳亭亭主

4.「木にかこまれているとうれしいだろう」

 「百年名家」という番組のCMで語られる台詞です。甥(加瀬亮)が、アパート経営を始めると言うオジ(高橋長英)を尋ねてくる設定で、甥が「なぜ木造にしたのか」と尋ねると、オジがこのように答えます。この会話文にはコピーライターがよくやる手法の、「ねじり」と「省略」とが見え透きます。(「ねじり」は私の勝手な造語で、たとえば、主観的表現と客観的表現とをわざとない交ぜにし、聞く者を一瞬戸惑わせる手法)

 甥がオジに問うたのは、アパートを木造にした意図ですから、このばあい、オジは「木に囲まれて暮らせば、心が安らぎ借り主も喜ぶだろうと思ったからだ」と答えるのが丁寧な説明だろうと思います。もちろんCMがくどく言わずに省略した言い方にするのは分かっています。

 オジの想像の中で「木に囲まれて暮らすと心が安らぐ」のはもちろん借り主です。「心が安らぐ」とすれば主体が主客いずれでも客観的表現であって、結びに「だろう」という他者の様子・心情を推測する話者の表現が来ても不自然ではありません。

 オジが「自分もうれしいと感じるから、借り主もきっとそう思うだろう」という意味でこのように言ったとはもちろん十分理解出来ます。

 しかし、「うれしい」とだけ言うと、それは主観的表現であり、その下に直接、客観的推量表現の「だろう」が来ると、飛躍が生まれ少し不自然な省略表現になってしまいます。

 加えて「うれしい」は、私の理解では、当節流行している、微妙に異なる対象を様々に表現仕分けるべきところを、平板な一語表現で済ませてしまう「*手抜き語法」とも軌を一にしています。現に、ここも「心が安らぐ」「気持ちが和らぐ」など、さまざまに表現出来るところを「うれしい」の一語で済ませています。
(*例:「返す」「出す」「あと」「ぶぶん」など 「手抜き語法」も私の造語です 「ズボラ語法」と言いたいくらいです)

 もちろんコピーライターという種族は、そのちょっとした違和感や流行を意図的に利用して、聞く者の耳をそばだてさせるのが常套手段であるのは承知しています。しかし、普通の言語感覚の持ち主には、わずかであっても違和感・不快感を覚えさせます。すくなくとも私は、初めて聞いたときから「この言い方は、ちょっとへんだな」と感じました。

 さらに、木に囲まれた生活が快適かどうかは、あくまで借り主の感覚によることであるにもかかわらず、CMの状況設定とオジの言葉からは、「だろう」で弱められていても断定の気分が感じられます。

 もちろん、木造に重点を置いた企業のCMであるからには、木造のよさを提唱するのは当然ですが、広告は押しつけがましさを感じさせないのが最良ではないかとも思います。


No.18
<2016年11月29日 受信>
件名:「とある」が「ある」を駆逐している
投稿者:半畳亭亭主

5. 「とある」は、私などの言語感覚では、もともと「予想していなかった場所」に「たまたま」「立ち至った」場合などに使っていた語(連体詞)です。それをなぜか「不特定な」「もの・とき・ひと」などの前に置く語(連体詞)「ある(或る)」と全く同じように使っている文を頻繁に見かけるようになりました。

 もともとあった二音節・二文字の「ある」を差し置き、「とある」は、わざわざ一音節・一文字余計に使うわけですから、日本語学の先生方がよく弁護なさる根拠としての「言語運用の効率化」という点からみても理にかなっているとは言えません。

 おそらく「とある」と言った方が、日本語の音律上響きのよい三音節に適うことと、「ある」より「ちょっと気取った」感じが出せるといったあたりが、「とある」が頻用されるようになった理由ではないかと推測しています。言語にあまり関心を持たない人達が、誰かが使っているからというだけの理由で、不用意に使っているうちに広がってしまったのだろうと考えています。

 「とある」が「ある」を駆逐しつつあるのに似た現象として、「動作移動の帰着点」を示す助詞「へ」に代わって「へと」がさかんに使われるようになったことも挙げられます。

 「へと」は元来、人・ものが移動する場合、その始点から終点までの経過(ある程度の時間と距離)をも含んで指し示す助詞であったはずが、いまは「単に」「動作移動の帰着点」だけを示す「へ」と全く同じ使い方をするようになっています。

 つまり、たかだか1、2メートルあるかないかの距離を移動するだけでも、「彼は台所から玄関へと歩いて行った」のような使い方をしているわけです。これも「とある」同様「一音節・一文字」余分であるだけでなく、帰着点のみを示していた「へ」を駆逐することによって、表現者・受容者双方の理解に混乱と齟齬とを来す原因になっています。たとえ近い将来、「へ」と「へと」との使い分けの出来ない人ばかりになってしまっても、相互理解の精度があがることはないと予想されます。

 一方で音節・文字を余分に付け足すにもかかわらず、もう一方ではむやみに語・語句の省略化が流行っています。

 従来なら「私の頭(心)の中では」「私の目算(心づもり)では」などと言い分けていたところを、たったひとつの言い方「私の中では」ですませるようになっています。ブログばかりでなく、高名な識者の文章中にもよく見るようになりました。

 この省略化の例は多く、思いつくだけでも
 ・「頭が真っ白に」(頭の中が真っ白になったような気分で)
 ・「あと」(その他には・付け足すと)
 ・「なので」(と言うわけなので・そのために・それ故)、
などがあり、言い方まで「甘ったれた・舌足らずな」印象を受けます。

 これらは、どう考えても日本語の「進化」とは思えず、「劣化」(この言葉も嫌いですが)としか言いようのない現象だと、私などは思います。


No.19
<2016年11月29日 受信>
件名:「想定」が「予想」を駆逐した理由
投稿者:半畳亭亭主

6.「想定」は、「想定内」「想定外」両様に使う。堀江貴文が華々しくマスコミに登場し、訴追されて暫く表舞台から姿を消すまで盛んに使った語。のち、軽々しく皆が倣うようになって、もとの「予想の範囲内」「予想外」に取って代わった。

 「予想」は、現在時点で十分な根拠に基づいた確信に至らない場合に使うのに対し、「想定」はある程度の確からしさを臭わせ、たとえ悪い結果になってもそこまでなら痛痒を感じない、我慢できると言う気味を含む。

 語義に明瞭な差があるにもかかわらず、現代の日本語話者の言語感覚では同義と意識されてしまい、「予想外」が適切な場合でも「想定外」が用いられている。

 もちろん「予想外」と言えば、洞察力の欠如・見通しの甘さなど話者の愚かさを認めることになってしまう所を、「想定内」と強弁することで「平気平気・そこまで見通した上でのことさ」と平静を装うことが出来る。また、「想定外」と言えば可能な限り事態の展開を推し量ったが、それを遙かに超えてしまった、人事の限界を超えたのだと暗に弁解できる。虚仮威し修辞法の一つ。


No.20
<2016年11月30日 受信>
件名:語義無限定単純語流行の危険性
投稿者:半畳亭亭主

 まず次の具体例を見て下さい。 ( )内はより詳しい言い換え例です。

(例)出す(=提出する/提案する/提示するなど)
   返す(=切り返す/返答する/回答する/送ってくるなど)
   見えない/見えてこない(=分からない/見通せない/推測出来ない/洞察しがたいなど)
   とる(=具体例無数)
   ぶぶん(=箇所/側面/点/ところなど)
   もの(=印象/感情/感慨など 実例:さびしい/つらい【もの】がある)
   の(=思い/感覚/気持ちなど 実例:くやしいという【の】はある)
   
   自分の中では(=自分の頭の中では/自分の意識の上では)
   頭が真っ白に(=たとえるなら、頭の中が真っ白になってしまったような感じがした)

 戦後何度目かの英語ブームと言われて可成り時間が経ちます。英会話入門書の表題・宣伝文句に、「たったこれだけの英単語で会話が出来る」とか、「中学校英語で十分」などという謳い文句が目に付きます。つまり、have・take などの基本単語だけでも文脈にあわせて様々に使い分けられるということのようです。それはそれとして有用な知見に違いありません。しかし、これの援用が現代日本語の運用に、悪い影響を与えているのではないかというのが私の考えです。

 日本語を母語とする者が、例えば英語圏で英語を使うのであれば、少ない単語数で多様な表現ができるのは都合の良いことかも知れません。しかし、これを日本語に適用するとどうなるか。例示した「出す」「返す」「見えない」のようなきわめて単純であるがゆえに語義範囲の無限定な単語で様々に異なる意味を表現するのは、はたして母語としての日本語にとっていいことなのか、考えてみる必要はありそうです。

 話し手である自分は単純語を用い、聞き手には前後の文脈から語義を判断させるのは、「甘えた」、他者によりかかった言語運用法だと言えます。この傾向は、文頭・語頭で昨今頻繁に用いられるようになった「なので」にもみられます。せめて「ですから/それゆえ」ぐらいは使ってほしいものです。

 また、「出す」に対する「出る」、「返す」にたいする「返る」は、ほとんど使われず、いっぽう「見える/見えてくる」はあまり使われず、使われるのはほとんどが「見えない/見えてこない」であることも、これらの単純語がけっして高い汎用性を備えていない証拠のように思います。自分の支出は出来るだけ抑え、相手に多く出費させようとする、所謂〈コスパ〉(この短縮形カタカナ語の類も嫌いです)意識に沿った言語運用と呼ぶべきなのかも知れません。

 語義範囲の広い単語を多用するということは、使用語彙が少なくてすむということです。人は易きに流れるもの。上に例示したような単純語・のっぺらぼう語が蔓延しているうちに人々の言語表現がどんどん貧しく平たくなってゆくのは、私のような「中古人(ちゅうぶるじん)」には耐えられません。それよりも不便です、不愉快です。


No.21
<2016年11月30日 受信>
件名:無題
投稿者:楽々

政治家が最近使う言葉に、半畳亭さんのいう「想定外」のほか、
「鑑みて」「未曾有」が気になります。
一人がいい始めたら、みんなで(アナウンサーや評論家まで)
使い始めたような気がします。


介護保険が始まったときにやけに「サービス」って使うので、
無料なのかと思ったりもしていました。
普通おみせやさんで「サービスです」と言われたら、只だと思いますよね。
曖昧で嫌いです。


No.22
<2016年12月01日 受信>
件名:再び「言語不通社会」の到来を憂う
投稿者:半畳亭亭主

  「ののちゃん」などの四コマ漫画によくあるような、通り抜け禁止の表示がある金網は、必ず破られ、それを見つけた他の子供も大人も次々にそこを通り抜けてゆき、やがてはフェンスとしての機能を失い、平然と大勢の人々が本来道ではない道を大手を振って通行するようになります。

  貼り紙を無視して通り抜けるのは、規則破りの快感の他に通行距離の短縮という利点があるからですが、禁止の表示があるのは、そこを通行することによって誰かに何らかの不都合・危険・不利益が生じるからです。通り抜ける人自身もセーターやスーツに綻びをつくってしまうおそれが大いにありそうです。

 通り抜け禁止の貼り紙は物理的制止の記号ですが、ことが伝達機能を持った記号である言葉になると、人々はなおさら安易に、人踏み初めし形見の抜け道を平気な顔で踏みしめてゆきます。隠語・略語・流行語・無用のカタカナ語・短縮語を、したり顔に、あるいは無反省に使う人は、まさにこの抜け道を通る人です。

 言語と言語運用とは確かに時代とともに変化してゆくものです。昔はそんな言葉を使わなかったと憤る年寄りも、所詮は自分が生きてきた時代に馴染んだ言葉遣いを最良のものと思い込んでいるに過ぎないという批判もよく聞きます。

 ただ、それなら言葉はいくらでも変わってゆけばよいのか、同時代の者が眉をしかめるような物言いもほうって置けばよいのか、というとそうではないと思います。濁流は可能な限りせき止める努力をしなければ大変なことになるのと同じように。

 分かり易い話、ピコ太郎言語、ダイ語、タモリふう四カ国語、故藤村有弘ふう偽仏語、などだけではそもそもまともなコミュニケーションが成り立たないでしょう。

 もちろん、もし紫式部や藤原道長が鎌倉時代に蘇ったら目を回すでしょうし、坂本龍馬でもPPAPを聴いたら刀でなく腰を抜かすかも知れません。しかし、この譬えでもお分かりいただけるように、それは時間を極端に圧縮して観察(想像)しているからであって、現実の言語運用は極めて緩やかに、同時代人にははっきりと意識されないほどの速度で進行していくのがよいのではないかと私などは考えています。速度を落とすには、ブレーキが多いほどよいでしょう。

 二年前に亡くなった水谷静夫という日本語学者の『曲り角の日本語』には、氏が入院しているおりに同室になった高校生とその見舞に来たこれも高校生の友人との会話が、全く理解出来なかったことにショックを受けたということが書かれています。

 言語は移り変わるものだとしても、余りに急激な変化・変容は捨てておけない現象と言えます。若い人はそれなりに話す相手によって言葉を使い分けているという物わかりのよい人もいますが、そうであっても、多重言語社会に生きることは相当に不自由ではないでしょうか。現に楽天の社長などは日常語も米語で用を足したがっているように見えます。

 そこまで皮肉を言ったり話を拡げなくとも、すでに言語不通現象はじりじりと日本社会を侵食しています。もう数十年も昔の事ですが、同じ車両に乗っていた若いカップルの様子を今も象徴的な出来事として思い出します。

 女の子の方が座席にかけていて、その前に男の子がつり革につかまっていました。女の子に向かって男の子が何度か同じ内容の言葉をかけていたらしいのですが、電車の振動音と回りのさざめきが邪魔をするのか、女の子はよく聴き取れない様子でした。二度三度男の子が声をかける度に女の子が問い返していると、いきなり男の子が「もうええわ」と軽い怒気を含んだ声で言うとプイと横を向いてしまったのです。

 実はこれとよく似た光景はそれまでにも何度か目撃していました。今の子はなんと気が短いのだろうと思っていましたが、あるいはあれは聞こえなかったのではなく、言葉が通じなかったのではないかという気がします。語彙が乏しく自分が伝えたことは誰でもすぐに分かってくれると思い込んでいたのが、予想に反して理解されなかった。その原因が何であるかさえ考える意志をもたず、コミュニケーションをそこで断ち切ってしまう。

 若い人達、あるいは所謂「ネットオタク」達が狭い自分たちだけの世界で通用する言語を使って生きていると、少数をどんどん掛け合わせていけばやがて無限にゼロに近づくように、次第に他の世界・他のグループの成員とは話が通じなくなります。まだ十分な知識・教養を身につけていない子供たちだけでなく、あの連合赤軍事件でも同じようなことがすでに起きています。

 1960年から1970ごろにかけて叫ばれた「言語不通社会」が、再びさらに強烈な粗暴さで今の日本を席捲しようとしているように私などは思えてなりません。「いい年をした」私たちが、どんな形であれ、この容易ならざる問題に広く関心を持ってもらえるよう、さまざまな手段で発信してゆかなくてはならないと考えています。


No.23
<2016年12月01日 受信>
件名:「逃げるは恥だが役に立つ」はなぜおかしいか
投稿者:半畳亭亭主

 しつっこいと思われるのは承知で、前々回に投稿しました、今評判らしいテレビドラマ(漫画が原作だそうです)の題名について、自分なりに説明したいと思います。

【素材】Szegyen a futas, de hasznos.(「逃げるは恥だが役に立つ」)
【私見】いろいろ調べてみて見つけたネツト上の情報では、ハンガリーの諺だそうです。意味そのものは間違っていないのかも知れませんが、翻訳らしき上のテレビドラマの題名は、日本語としておかしいと感じます。

 「逃げる(こと)は、恥であるかも知れないが、何か別のこと(本来の目的/より重要なこと)を為すには便法たりうる」ぐらいの、桂小五郎がつぶやきそうな意味だろうと思いますが、「役に立つ」と言うところがどう考えてもおかしいのです。

 この文は「逃げる(こと)は」が主語で、述語に「恥だ」と「役に立つ」の二つをとる構文ですから、A「逃げる(こと)は恥だ」とB「逃げる(こと)は役に立つ」の二文に分割する事が出来ます。

 Aは「逃げる」が連体形ですから形式名詞「こと」を補えば、「a(名詞)はb(名詞)である」という一つの文として過不足無く成立します。「逃げる」から喚起される「行動」の一般的理解は負のイメージを伴っており、「恥だ」も負のイメージを持つ事柄への負の評価を含んでいてこのab両者は意味の上からも等価であると認識されるからです。

 しかし、B「逃げる(こと)は役に立つ」は、落ち着きがよくありません。なぜかと言えば、「逃げることは役に立つ」では、一体いかなる場面・場合に役に立つのかが示されていないのです。欧文文法で言うところの補語が無いわけです。

 また、「は」で受けられている主語「逃げる(こと)」が、例えば「この杖」のような用途の明確なモノである場合も、この落ち着きの無さは解消します。

 このことから、Bの一見「文」と見まがう「語連続」は、実は安定した文としての性格(資格)を備えていないことが分かります。「逃げる(こと)は恥だ」という完結した文と「逃げる(こと)は役に立つ」という文としての内実上の条件を備えていない形式的文という、異なる性格を持った両者を、構文上は並列の関係でつなぐことで、全体として落ち着きの悪い文になっているのです。「が」が単純接続ではなく、逆接の関係で両者をつないでいても、構文としての均衡がとれていないことに変わりはありません。

 なお、こう言った不均衡をわざと用いることで、聞く者の好悪両様の注意を引きつけようとするのも、コピーライターや脚本家の技術の一つであることは分かっております。しかし、言葉にキュビズムを持ち込むのは悪い傾向だと、私のような頑固者は考えています。ダダイズムとはまた別物だとも思います。


No.24
<2016年12月01日 受信>
件名:言葉は変化する、ということの意味
投稿者:半畳亭亭主

 言葉と言語運用は変化するものだと言います。それはそのとおりです。しかし、よく考えれば、言葉そのものが自分で勝手に変わるわけはありません。パソコン上の1文字を変換するとき、関係する文書すべてに同様の変換が行われるよう命令することは出来るでしょうが、単語そのものが翌朝目覚めてみると全く違った形になっていた、意味が全く別のものになっていたというようなことは有るはずがありません。すべては言葉を使用する人間が変えるのです。

 人間が言葉を、言葉の意味と使い方を変えるといっても、伝達機能を保持し続けるためには文法法則をすっかり変えてしまうなどということは出来ません。また、犬という動物を指し示す言葉「イヌ」を、今日から「ネコ」と言う事にするなどということは、たとえ始皇帝あるいは趙高であってもできなかったでしょう。しかし、すでに有る単語を使わないようにすることは出来ます。使用言語数を減らすことです。そんなバカなことをする人は居まいと、思われるかも知れませんが、じつはいまネットなどに溢れている文章の上で現実に起こっているのです。

 文法上の顕著な例では、副詞的用法(活用語連用形)であるはずの「すごく」が、このごろは「すごいかわいい」などと、形容詞連体形の形で用いられるようになっています。以前から「すごい怒ってた」も通用していましたから、やがて「すごく」の形は形容詞の活用形からも消滅するかもしれません。副詞であれば元が用言であってもいちいちどの活用形が正しいのかを判断するのは面倒ですから。

 単語の例では、前回もふれたように類似の意味を表す複数の単語が、その中のたぶん一番簡単な単語一語だけに代表させるような形で減少化が進んでいます。煩を厭わずもう一度例を挙げると、「返事をする」「反論する」「相づちを打つ」などとさまざまに使い分けてきた言い方を、「返す」一つですませるような言葉の使い方が優勢になって来ているのです。

 このような現象は書き言葉・話し言葉両方で進行していて、文章語のなかにも頭語として「あと」が頻繁に使われるようになっています。もはや、冗漫と感じられる「そのほかには」「つけたしますと」などを完全に駆逐してしまったようです。

 時代はどんどん進んで行きます。AIが名人棋士と対戦して打ち負かすようなことが、こんごあらゆる分野で起き、人間が主役の座から追い落とされる時代が来るという、可成り確信に満ちた予言もなされています。速さが仕事でも趣味の世界でも尊ばれる傾向は、少数の例外を除いて強まるばかりでしょう。

 そんな慌ただしさ、速度信仰が、ひょっとしたら言語運用の上にも影響を及ぼしているのではないだろうかと私などは考えています。メール上の顔文字はもはや常識、「アホらしくて笑ってしまった」が「わろた」に短縮され、いまはwと書くようです。

 AKBもPPAPもその延長線上に誕生したのでしょう。加えて無反省な英語崇拝が、向こうではやむを得ず採用している頭文字を集めた略号を真似、なんでもかでもローマ字数文字で表記するような傾向も顕著になっています。集中治療室を国際基督教大学と誤解するような滑稽がこの日本のあっちこっちで起きるのは喜劇ではなく悲劇ではありませんか。

★管理人より
 スレ主からの依頼により、投稿受付を停止しました。

 
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